『学校給食』11月号の書評欄から:コロナ下、黙食徹底の中でも「理想の給食」の食事スケッチに、「『孤』ではなく、その子の共食の歴史が反映されている、深くつながっていることの発見」の一文に感謝
私は『共食と孤食 50年の食生態学研究から未来へ』(以下、本書)を8月30日に発刊し、9月15日に、「読んでくださった方々からいただいている感想・質問・意見等の内容が本書の論点や課題ズバリなので、この内容をキーワードにしながら、補充・修正・展望を順次つぶやきたい」と書きました。にもかかわらず、勇気が出ず、1か月が過ぎました。
勇気が出なかった理由の一つは、この間も「料理と人生」や「家族と孤」等に関する吟味された著書等が公表され、それらの中で、家族との共食に固執することへの懐疑を強く感じることです。社会学や文化人類学を基礎にする家族論や生活論では説明しきれない、「日常的に」食べること・自身の「体内へ」入り自分自身になり、同時にこれらが、直「生活・地域・地球等環境へ」多層に多様に影響し、次の一人ひとりの食の方向・方法を決めていくという「人間の食の営み」の特殊性について、多くの人と多様な議論を交わし合い・共有し・実践へと進むための、さらなる論理的な充実が必要であることから、どうしたらよいかと思案していました。
こんなときに、タイトルに書いた一文に勇気づけられました。
月刊『学校給食』は1954年(私が大学生になったころ)に第1号が発刊され、一貫して子ども目線で学校給食のあり方・仲間づくり・体制づくり・環境づくり等を問いかけてきた小さな雑誌(すみません。サイズが小さいという意味)ですhttps://www.school-lunch.co.jp/。その11月号(通算828号)の小さな書評欄(また、すみません。B5版の1/2ページという意味です)が届きました。
一文とは、「理想の給食」の食事スケッチに、「『孤』ではなく、その子の共食の歴史が反映されている、深くつながっていることの発見」です。
日本の大人たちは、実際に食べた食事のスケッチを描くことはできても、「理想の食事」のスケッチを描かない・描けない人が少なくありません。描けないというより、「理想の食事」が浮かばない(栄養素構成や食品群の組み合わせ量の表。特別の料理は浮かぶが、日常の「食事」が具体的に浮かばない)人も多いようです。「なぜ俺は、実際には食べられないことがわかっている現状なのに、描かなければならないのか? そして、あんたに見せなきゃならないんだ」と怒ってしまった高齢者や、「健康な食事を学びに来たので、絵を習いに来たのではない」と部屋を出てしまう若者もいるほどです。
これに対して、子どもたちは(学校やクラスの事情で「食事スケッチ」を描く時間が取れないことは多々ありますが)いろいろな対応をしてきます。
その中、問いかけが「家庭」での理想の食事なのに、レストランメニューや食堂メニューしか浮かばない子どもたちがクラスの6割を占めたことがありました(本書89ページ)。また、料理だけをA4版の紙面いっぱいに描いた子、逆に用紙の左片隅に小さな塊のような料理を描き、ほとんど白紙のままの子。立派な食卓と椅子や家具を詳細に描いているのに、料理も人も描かれていない子、等いろいろでした。
でも、「学校給食」の理想の食事スケッチでは、いろいろ描かれる。大人たちの気が付かなかった不満や希望がこちらに問いかけてくるようなスケッチもある。(本書89~91ページ)
さらに、コロナ下の黙食徹底の中で描いてくれた食事スケッチでは、自分自身・友達・先生・時には給食室のスタッフなど、複数の“人間”を描いた子が少なくありませんでした。マスクをしたり、間隔をあけていることがわかるような添え書きをしたり……でした。
加えて、「理想の学校給食」の食事スケッチでは、黙食徹底体制からの解放感も緊張感も一緒になって、自分・友だち・関係者たちがより強調されたスケッチになっているのでしょう。
学校給食は、家庭では経験できない「同世代」の「多く」人々との共食です。「日常的」な経験(うれしいことも嫌なことも、望むことも望まないことも……)や、人・食物・地域・環境の循環的なかかわり(矛盾の重なり合いやその不合理性の絡み合いも)についての「学習による深まりや体系だった観方」等が、一人ひとりの子どもたちの「学校給食」の視野(「学校給食」の理想像?)につながっていくからでしょうか。家庭とは異なる「同じ世代の仲間たち」とのかけがえのない共「食」(共「食事を食べる行動」だけでなく、「つくる行動」「食情報を交流する行動」、これらの「環境づくりにつながる行動」等を含む)が育む、「学校給食」ならではの重要さの再認識になりました。冒頭に紹介した書評が“発見”と表現した、意味の深い発見につながります。
私たちが願うことの一つは、一人でも多くの子どもたちが、それぞれに、自分が夢見る「理想の食事スケッチ」を描きたくなるような気持ちが育ち、自由に描けること。その食事スケッチを囲んで、気持ちを交わし合い・討論し・実現への提案を大人たちや社会へ発信できる…、こうしたことが当たり前にできるような自分・家庭・学校・地域・世界・地球……になることです。
しかし、今現実は違います。世界中が真逆の方向に追いこまれています。
新型コロナウイルスによるパンデミックで、海も土壌も人間を含む生物も脆弱になっている地球で、ロシアのウクライナ侵攻、イスラエルのガザ侵攻等数えきれないほど多くの人々の死傷・家族の離散、家・学校・すべての生活の場の崩壊、フードシステムの混乱や断絶による水・食料・生活物資へのアクセスの断絶等々とその連鎖が、さまざまな格差拡大を増幅しながら加速する中、行き場(生きる場!)を失っています。このような状態で、「水・食べもの・休む場所等が最優先で検討され・調達されなければならないこと」は当然です。「生物としての人間」の必須条件ですから。
1日でも早く、ひとりでも多く、人間らしい人間としての生き方ができるような世界を創り出す方向に動くようにしなければならない、その一端をしっかり担えるようにならなければならないいと、心します。
このためには、どんな地球でありたいか、どんな世界でありたいか、どんなわが国でありたいか、どんな地域でありたいか、どんな私たちの学校でありたいか、どんな学校給食でありたいか、どんな仲間や家族や食事でありたいか等々について、一人ひとりが思い・考え・発言し合っていくことが必要でしょう。
悲しい・許せない・悔しい気持ちで、コロナによるパンデミックや戦争の世界情勢の中で育つ子どもたちが、将来描く「理想の食事スケッチ」には、これらがどのように反映されるのでしょう。今までの身近な日常の積み重ねに、これらが重なり合って、地球・宇宙を視野に持つ、共食の歴史が反映されるでしょう。「共食の地球地図」も活用しながら、話し合えるといいな、と期待します。