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2009-03-31

「いのちの食べ方」から

ブログでつぶやきたいことはたくさん溜まっているのに、3月締め切りの原稿が重なってしまい、書けずにおりました。

その1つがニコラス・ゲイハルター監督の“Our Daily Bread”「いのちの食べ方」の映画をめぐってです。すでに国際的にも多くの反響があり、食をめぐる議論が重ねられている一本のひだ深い映画をめぐってです。この映画は3月中旬に名古屋市内で開催された、ある食育フォーラムの話題提供としても放映されました。

数え切れないほどのいのちが、無言で、(無視されたまま? 無視された風をしたまま?)人々の食物にばらされていく過程を、そのまま映し出します。命の宿る生物ですから実に美しい姿をしていますが、それがパーツにばらされていくプロセスです。多くの人の賞賛の理由に挙げられているように、映像が非常に美しいので、内部の無残さや非人間さ(非生物さ?)が浮き上がって迫ってくるのかもしれません。

食育を生産から加工・流通、調理、廃棄、食べる、心身の栄養、生きる力の形成、次の生産……の循環でとらえる「食」育としてとらえ、従来の「食のパーツ」育から「食」育へ、「栄養素摂取」育から「食」育への脱皮をと提唱してきた私にとって、その視点や視野をリアルに、ずばり表現してくれる“一本の映画”でした。

一方で、すべての作業中は無言なのに、自分たちの食事の時だけ会話が交わされる、笑顔もでる……。いっしょに食べる、食事を共にする、食事を作り、学習することを共にすること“食の共有:共食”と名づけ、その大事さを提唱し、ライフワークにしている私にとって、この映画の中の食事のシーンが共食のすべてを表現しているようで、胸にしみこんできました。

と同時になんとも言いようのない“無言の作業”を含む「食」であることを、見過ごしてきた(位置付けてこなかった)「食」育論の未熟さを突きつけられた“1本の作品”でありました。

残念なことに、フォーラムでは、手づくりがよい、地元産物消費がよいと、どちらかといえば一部のシンポジストが関係する特定企業や特定の食活動の宣伝に短絡しがちで、映画が提示する“現実の矛盾”に真正面から発言する機会がなかった不満が残るまま、家路に着きました。

次の機会に映画フォーラムとして、じっくり話し合いの場を作りたいと思います。

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