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2023-12-02

学ぶ人とそれを支える人が上下関係でなく、学びを「共有」する関係を育てる教材づくりを目指し“共走”してきてくださった藤原真昭氏の『新刊「共食と孤食」読書感想文』から:共「食情報」の重要性の再確認とその教材化の催促を

“共走”していただき生まれた教材の一つは『実物大・そのまんま料理カード』シリーズです。食生態学の基本理念と研究・実践の両面からの学術的根拠をふまえ、日本食品標準成分表の改定・「食生活指針」「食事バランスガイド」等国の食育施策・食環境変化等を節に改訂版を重ねて、全国的に活用されています。『第1集 手軽な食事編』(1994年)から出発し、現在約15種になります。

この『第1集』は、「自分や身近な人々にとって、どんな料理をどれだけ食べるとよいか」が特別の計量器を使わないでも、目ばかりや手ばかりや日常の生活用品で、おおよそわかる。そしてそのまま実行できる力が身に付くようになりたい +そうした学びをそれぞれの健康や環境の中で学びあえる教材が必要 +当時はほとんどがロウ製で提示用だったので、紙製で持ち運びやすく、自分でも作れるような手軽なこと +手が届く程度の安い価格で等、現実離れの願い・企画案を提出し、繰り返し話し合い、ラフスケッチを前に長電話での修正を繰り返し検討する等の“共走”開始の記憶が鮮やかにあります。

子どもも高齢者も、日本人も外国にルーツを持つ人々も、栄養や食に関心のある人もない人にも好評(と自賛している)。さらに、国際協力の一環でアジア・アフリカ・南米等の「栄養・食生活分野の専門家研修」を担当する時など、開講時の自己紹介や、日本紹介に活用することが少なくありませんでした。研修者の中には帰国後、自国版「実物大・そのまんま食事カード」を作ったと報告を受けることもあり、好評です。

“共走”開始の10年ほど前、1985年に女子栄養大学食生態学研究室編で『料理選択型栄養教育 主食・主菜・副菜論資料』(食生態学のねらいや基本概念・食物選択行動からの食事構成の仮説・その現地調査での検証・食物選択行動指標の提言へとつなぐ、ダイナミックな報告書)をまとめて、栄養教育関係者や学生たちと共有できる1冊(専門家同士の教材?)を編集・発行していただいたことが始まりでした。

「読書感想文」をご本人の内諾をいただいて、掲載させていただきます。

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新刊「共食と孤食」読書感想文    藤原眞昭 2023.10.9

 

香川綾学長からの宿題

栄養指導は栄養学になるか確かめたい―食生態学研究室がスタートするきっかけとなった香川綾学長と足立己幸先生(以下、筆者)の会談の話が「共食と孤食」の冒頭に載っていて面白かった。香川綾学長が、農学部卒業後都庁の保健所部門で管理栄養士として活躍されていた筆者に「栄養指導は栄養学になりうるか(医学系農学系に並べられるのか?)」とただしたのだが、この話は筆者の新しい仕事場として内定していた食品栄養学研究室から栄養指導研究室を経て新しい食生態学研究室に変わるきっかけとなったそうだ。

「人間不在」の栄養学から「人間食べること学」を目指して「食生態学」が動き始めたころから、筆者の演じる舞台は新境地で回り始め、にわかに面白くなる。51 年前の 1972 年のことだ。

この時期、私は女子栄養大学出版部で働き始めてわずか5年。「香川式食事法」や「4群点数法」の書籍編集(レイアウト)を月 100 時間近くも残業しながら働く身。「点数方式ばかりでなく、もっと人間味のある本を作りたい」と欲求不満が続き、労働組合の委員長までやって職場改革にも期待したがかなわず、しかし作りたい本を出すには自分で出版社を起こすしかないなと考えていた。この時期、筆者とは交流もなく関心もなかったが、5 年後に退職して、群羊社を設立してから、教材や書籍作りでは企画・監修・著作などで長年にわたり八面六臂のお世話になったのも不思議な縁を感じた。

 

「人間食べること学」目指した食生態学

足立己幸先生の半生記を読むと、常に大きな課題に関心を持ち、そのプランニングやたゆまぬ実践活動により、わが国の実践栄養学の世界に風穴を開け旋風をまき起こされたように思える。

「共食と孤食」には、筆者のこのような発想・計画・実行へのチャレンジ記録が縦横無尽に詰めこんであり、私にとっては実に面白い1冊となった。群羊社を設立する時代も重なり始める。

筆者いわく。これからの栄養学は環境とのかかわりを入れなければならない。一番身近な生体内環境から始まって、自分をめぐる環境、家族、組織、地域、

地域をめぐる環境と、次々と進み、環境の重層性にも目を向ける。

同時に「一緒に食べること」では、異なった食欲、異なった食への期待を持った人が一緒に食べることによる矛盾が多いことが指摘されていた。うまくやらないと食事が成り立たない、という日常的とのつながりも視野に入れてきたが、

「矛盾こそ創造の起点だ」とまで言い切って進む。

最近、食生態グループのキャッチフレーズには、「地域の食・力」も加わった。

「共食、食を営む力・生きる力、地域の食、地球とこれらの循環の視野」と、欲張りで、力強い。「一人残らずの人間らしい持続可能な食事を」というフレーズより具体的でわかりやすい気がする。

こういった豊かな発想とともに、常に一緒に戦う仲間がいて、実現に向かう活動歴の多様さは群を抜く。

食生態学、料理選択型栄養教育、主食・主菜・副菜論、3・1・2 弁当箱法、食事スケッチ法、食事作りセミナー、食のカレンダー、「共食手帳」の活用現場

(3.11 大地震では宮城県南三陸町で生死ぎりぎりの避難所で繰り返された「共食」づくりセミナー、みなみかぜを拠点にした地域共食広場)、子育て期の共同保育など、これまでにトライし続けてきて成果をあげた行動の実績の、理論的根拠から実践記録の要点が、この本でも初心者にもよくわかるように取り上げられている。

 

「人間らしさ、人間らしい食事」の評価

私が最も難しいのでは?と思うのは、「人間らしさ、人間らしい食事」の評価法だが、著者およびグループの長年にわたって継続されてきた、国内外のさまざまの食事調査結果によると、共食や孤食は健康や食生活と関係していることが分かっているという。しかし、単純に孤食が×で共食が〇というわけではなさそうだ。

「孤食・共食」の研究には近年は「子ども」と「大人」の共食の現状が食生態学の普段の食事調査では、本人が感じる自己評価に最も影響を与えるのが、食事・食活動で、「だれと食べたか」の視点とあるという。

素人から見ると孤食・共食の判断にも大きく影響しているようだが、共食〇・孤食×という視点がどうも気になりだした。食事の自己評価については、例えば、

「一人食べの個食」で家族が不在の食事なら、その理由・頻度もあっていいのではと思うが、どうも違うようだ。

ラグビーワールドカップで、好調のジャパンチームは残念ながら初戦で強敵イングランドに敗れた。試合後興奮さめやらぬグランドに選手と一人二人の子連れ姿が何組か見られた。国内外に試合やトレーニングに明け暮れる選手たちが子どもたちと一緒に食事を毎日した日が何日あっただろうか?きっと父不在の食卓は結構あっただろう。待ちに待った父帰る日の食事はきっと感動的だっただろう。

私は出雲市に生まれて、父は京都やハワイなど海外に長くいたので、父を交えた

「共食」の経験は盆と正月など旗日以外はゼロ。それもあって、調査の「一人食べ」の理由はぜひ知りたいと思った。

人間らしい食事とは、毎日同じ栄養バランスのとれた定食ではなく、食べたり食べなかったりも含めて、親がいたりいなかったり、悲しい時には食がのどを通らず、季節のごはんに感動したり、そういった食事内容と食べる人とのコンビネーションも大いに関係するのが、人間らしさと関係するのだと思う。そういう観点が、食事調査に組み込まれていない気がする。

共食の定義は「生活や社会活動を日常的に一緒に共有しているだれかと食行動を共有すること」で、このとき、食べる行動だけでなく、作ったり、準備する行動や情報を受発注する、そうした食生活を営む力を形成することも含めた食行動だと新刊にあるが。同感だ。

 

共食の定義

共食や孤食は健康や食生活と関連することが国内外の研究で分かっている。研究に研究を重ねてこられた学者先生には大変失礼だが、何をもって人間らしい食事とするのか、その判定は難しいと思う。しかしそれがしっかりないと、比較検討もできないのではないかと思う。エビデンスも無理ではないだろうか?などと素人の疑問がわいてくる。

私の個人的な体験では、父は京都に仕事があって、生まれた時からずっと盆・彼岸・正月以外は不在の食事。兄姉も大学を卒業すると家を出て、中学2年に私も母も出雲市から京都に転宅転校。しかし、なんの不満も不都合もなかった。仮に、親が不在の朝食が長く続いても、その理由や期間によっては問題にならないと思う。

家族で食事を食べるのが、人間らしい「食事」なんだ、だと言い切ることが科学的根拠はあるだろうか。たった一人の事例なんかエビデンスとは無関係。

「共食」と「孤食」は対立する関係でなく、多様な共食様式の両側面ととらえることが現実的。

 

読みやすさの大切さ

「共食と孤食」の本ではイライラすることがあった。文字サイズが高齢者には小さすぎるページがたくさんあった。

また、重要な図版が小さすぎた。読んでいて不思議に思ったのは、なぜ著者たちが真夜中に子どもたちの食事スケッチを整理しながら、感動して涙まで流した子どもたちのスケッチなのに、この本の場合は切手より小さく、印刷もお粗末。「スケッチ法」という表現手法が紹介されているが、原寸大はもちろん無理としてもちゃんと見えるように、できればカラーで載せなかったのか理解できない。切手ほどのサイズで、しかもピンボケで絵の中身がわからない。きっと、ページが増えてコストをはみ出すことが許されなかったとしか考えられない。

※ご指摘の箇所は案内用のサムネイルで、食事スケッチは、最初の口絵にカラーで大きく掲載しています。

文字サイズも同様。読みにくい、ルビほどの小さな文字サイズもある。高齢者には視力障害の人が多いことが、わからなかったのだろう。

300 ページ 400 グラムを超す重い本は、ショルダーバックで運ぶには重過ぎる。

毎日往復 2 時間の電車通勤も貴重な読書時間だが、私は見開きごとに全頁コピ

ーをとって 1 章ずつホチキスで閉じて「軽い本」にして電車の中でも時間を惜しんで読んだ。毎日赤ペンでどんどん書き込んだりアンダーラインをひいたりすることもできて、隅から隅まで存分に楽しむことができた。

筆者の原稿で注目すべきなのは、課題のゴールを明確にし、図表に組み立てていくことが多い。内容を深めるだけでなく理解しやすくする技もあるだろうが、初心者に難解であったり、わかりにくかったりする。今回の本でも、重要な図解や、最終章のマッチングを使ったゴール探しの課題などは、私にとってもなかなか難問だった。最終章の「共食の地球地図」も未完で、自分で作図を改めてトライしてみたい。研究者、教育者と編集者は、役割分担が一部違うから読書感想文で愚痴るのは筋が通らないかも。

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いつものように、やさしく・厳しい宿題をたくさんいただいてしまいました。

『共食と孤食 50年の食生態学研究から未来へ』(以下、本書)の第2章「研究の中で、大切にしてきたこと」(6)、(7)(81ページ)をはじめ各所で強調している通り、私たちの研究のゴールは学術論文を書くこと優先でなく、“一人でも多くの人びとに届き、それぞれの行動へとつながるような(広義の)教材づくりと活用”と位置づけ、関係者の協働・連携の中、こつこつと実行してきました。

“共走”者の「読書感想文」では、食生態学研究にとって最重要課題だと位置づけているにもかかわらず、「共食・孤食」研究では、教材としての具体化は進んでいないではないか? と、厳しくズバリの指摘です。

本書で紹介している(参考文献・資料に書かれている内容を含め)だけでも、国内外かなり多種多様な教材を作成し、実践につなげる努力をしてきました。が、それらの多くは特定課題に対応する学習プログラムのための教材(本書、第5章の食事づくりセミナー)とか、特定地域の課題解決のための活動で関係者が共有できる教材(同じ第5章の「共食手帳」)に留まっている……。

「共食・孤食」について、冒頭の「実物大・そのまんま料理カード」のように、子どもも高齢者も、日本人も外国にルーツを持つ人々も、栄養や食に関心のある人もない人にも届いて、楽しく共有できるような教材をまだ具体化してないではないか? という催促です。

今まで大事に保管してきた調査票や実践プログラムの記録等資料の中に宝物(素材)がたくさんありますから、それらを丁寧に活用して「1冊」を作りたい、と思います。仲間たちと制作し、活用してきた手作り教材もあります。

可能なら子ども発信型で地域中に広がる可能性を持つ絵本を作りたい!

可能なら、子どもたちと共編著で作りたい! 私たちの「共食・孤食」研究は子どもたちの「食事スケッチ」の発言から始まり、深まり、ひろがってきました。新型コロナパンデミックの超難関を乗り越える勇気をくれているのも、子どもたちの「理想の食事スケッチ」(本書、281ページ)ですから。