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2010-02-07

子どもたちの“孤食”と大人たちの“無縁社会”

先日、NHKスペシャル「無縁社会」を食い入って観てしまいました。

1月23日放映されたNHKアーカイブス「子どもたちの食卓」についていただいた、多くの感想やコメントの中に、
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孤食より、孤食しかできない一人暮らしの人々のことを、どう考えますか? もっと深刻な問題が根深くある中で、自分から勝手に、選んで孤食をする子どもはわがままです。甘やかす必要がない。
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というものがあり、私はこの課題の整理が出来ず悩んでいましたので、大人たちの「無縁社会」に、子どもたちの孤食が何層にも重なって迫っていたのです。

郷里の北海道にいる姉が取れたてのジャガイモを、東京に一人出稼ぎで出たまま一人暮らしをしている弟に、宅配便で送りました。
「送ったよ。明日着くよ」「着いたかい」「返事がないから心配している」
等留守電に入っている暖かい“姉”、まさに姉の声が、耳に残っています。
結局、受取人不在で返送されました。
孤独死で処置されていました。

今、私は自らの共食論の中で、家族が一緒に、同じ時間帯に、同じ食卓を囲むことの難しさから、食事を作る行動や食情報の交換を含む食行動の共有に注目し、共食の概念をやや拡大し、共“食(行動)”という考え方を提案してきています。
もちろん、食べる行動は日常的に頻度が多く、すべての人が行うので、共有の機会も多く、心身両面の直接的な関係を共有できることなどから、共食の基本行動である、と位置付けてきました。

しかし「無縁社会」でさらけ出された家族や友人や社会との関わりの最後の一本の糸は食卓のような“近い関係”、体温も、吐く息遣いも、体臭も、もちろん細かなしぐさの小さな変化がみえるような“近さ”が共有の必須条件のように強く思いました。

番組の後、思い出したことが、自分のささやかな文章ですが、「なぜひとりでたべるの」改訂版で加筆した“はじめに”
「自身の事例で母子は何百本もの糸でつながっているので、一本ずつ切れていく様子は日々の食事のときに分かる。一度にぷつんと切れる(キレる)のではない……」
です。

一人暮らしの人も、1ヶ月に1度でよいので、誰かと食卓程度の近さで食事が出来る地域、社会でなければならない。
何をどうすることが必要なのでしょう?!

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